朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり
先週は2人の通夜・葬儀に参列した。一人は町内の知人で年齢は私より2歳上、もう一人は、私の従兄弟で年齢は70歳台後半だが、二人とも体調を崩して入院してから1ヶ月ほどで亡くなっている。これまでも、通夜や葬儀に参列する機会はあったが、どちらかと言えば親の世代が亡くなる場合が多かったが、最近は、自分と同世代の人の訃報も聞くようになった。お彼岸の墓参りでも思ったことだが、もう10年もすれば母の亡くなった年齢を超えてしまう訳だし、いつ死んでもおかしくない年齢ゾーンに入っていることは間違いない訳だ。
先週の葬儀の後、お手次ぎ寺へ骨収めに行った際に、僧侶がお経の後に御文を読んでいた。御文とは、蓮如上人が親鸞上人の教えを広めるために親鸞上人の教えを噛み砕いて数多くの手紙にして著わしたものをまとめたもので、私の地元では「おふみさま」として親しまれている。
骨収めの際に読まれていたのは、御文のうちの「白骨の章」といわれるもので、名文と言われていて、よく通夜の席や法事の席でもお経の後に僧侶が読むことが多く、全体は暗誦していないがひとつひとつのフレーズは耳に馴染んでいる。
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに 凡そはかなきものは この世の始中終幻の如くなる一期なり」
「今に至りて 誰か百年の形体を保つべきや 我や先 人や先 今日とも知らず 明日とも知らず・・・・・」
「されば 朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり・・・・・」
「野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり あわれというも中々おろかなり」
同世代の人の訃報に接すると、耳に馴染んだ御文のフレーズのひとつひとつが、自分事として聞こえてくる。
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